2024.06.03更新
「作品は、我が子であり自分の分身」
窯元
松浦唐津 今岳窯
安土桃山時代から唐津焼が焼かれていたとされる今岳の里。この地で昭和41年に「今岳窯」を開いた溝上藻風さんは、人間国宝である井上萬二先生に師事したという人物だ。現在は息子とともに古唐津の伝統を守りながら、美しくも温もりあふれる器を作り続けている。「今は、孫たちと笑顔で過ごす日々が精一杯です」と笑う溝上さんだが、焼き物への探究心はますます深まるばかりだ。 長く続けてきたからこそ思う陶芸の世界が抱える課題と、その魅力について伺った。
陶芸の世界との出会いについて、教えてください。
私は佐世保市にある窯元で生まれました。ここは国の伝統工芸に指定されている「三川内(みかわち)焼」の産地で、私が中学生の頃は、家庭科の授業で焼き物または農業を選んで学ぶ機会がありました。このとき私は焼き物を選び、ろくろを教えてもらったのがきっかけで陶芸の世界で生きていきたいと思うようになったんです。
ご実家は、どのような窯元だったのでしょうか。
代々、佐賀県有田の泉山という所で焼き物を手掛けてきた家系で、江戸時代が終わる幕末頃には苗字帯刀が許されました。祖父の代までは有田焼を作っていましたが、父がそれに負けないような焼き物を作るぞと言って、薪窯で焼いていました。当時は職人さんが60~70人くらい働いていたように覚えています。
ご自身もそちらで修行されたのですか?
高校卒業後は、実家の窯元で働き始めました。ただ、高校一年生の時に父が急逝してしまい、叔父が代表を務めるようになったのですが、自分とは考え方が合わなかったんです。時代のニーズもあったと思いますが、たくさん作って安く販売するという考えが、私には納得できなかったんですね。
モヤモヤとした思いを抱えながら高校生活を送っていたわけですが、そんな私を見ていた先生から、あるとき「ちょっと来なさい」と言われたんです。なんだろうと思いながら行くと、先生が嬉野や波佐見町、唐津市などへ連れて行ってくれて、陶芸の原料を一緒に採取してくれたんです。それをきっかけに1300度で焼くタイルを1250度でも焼けるようにするなど、いろいろと研究するようになりました。実際に焼いたものを高校の研究発表会に出したらグランプリをいただいて、研究することがますます面白くなっていったんです。
自らの手でゼロから作り上げた今岳窯
今岳窯を開いたきっかけについて教えてください。
私は26歳の頃に家を出て、これまで自分が研究してきた焼き物を形にしたいという思いで伊万里市に移り住みました。それが昭和41年の頃です。当時、県立有田窯業試験場(現・佐賀県窯業技術センター)で、後の人間国宝 井上萬二先生が働いていらっしゃって、義父の紹介を得て、私も先生からろくろを学ぶことができました。
その矢先、昭和42年に西日本を中心とした豪雨災害が発生したんです。とても大きな水害で、家族と暮らしていた家も仕事に使う道具も、全て水に浸かって使えなくなってしまいました。その後は焼き物を作る会社の工場に採用してもらい、社長から指示を受けて新しい陶土を見つける仕事などをしていました。そうこうしているうちに、義父が所有していた土地を借りることになり、水害で出た廃材などを利用して小屋と窯を作りました。それが現在の今岳窯で、昭和44年のことです。
廃材を使って窯を作られたとは…大変なご苦労をなさったのですね。
そうですね。スタートの時点でかなり苦しかったですし、女房にはだいぶ苦労をかけました。でもその頃に作った柿天目の焼き物を展覧会に出したら、ありがたいことにいろんな賞をいただいて、その賞金で障子や畳を買い、子どもを育ててきました。昭和45年には長女が誕生したんですが、お医者さんからは「溝上さん、ここは人間の住む所じゃなかばい」と言われるくらい、夏は暑くて冬は寒いという環境でしたね。近所の人たちが野菜や魚を持ってきてくれて非常に助かりましたし、こうして振り返ってみれば1日1日面白かったなぁという印象があります。
見る者の心を震わせる朝焼けと夕焼けの風景
ホームページなどで作品を拝見させていただきました。主に焼締め技法を手掛けていらっしゃるとのことですが、見事なまでに表現された朝焼けや夕焼けの美しさが印象的です。
ありがとうございます。実はあの焼締は、たまたまできたものなんです。昭和42年の水害に遭ったとき、家に溜まった泥を使ってみたら、あの色が出るようになったという不思議な話でして…。
焼締め技法は釉薬を使わずに仕上げるのが特徴で、窯の温度や灰などはもちろん、土の性質によって出来上がる作品が全く違ってきます。そのため私の焼締めの作品は、あの水害がなければできていなかったんです。あのときは本当に苦労しましたが、それでもこうして新しいものを生み出すきっかけになりました。何が将来を照らす光になるかわからないなと、つくづく思います。
昭和45年に「西海の夕映え」という作品で日展初入選を果たされ、それ以降も14回入賞。そのほかには、九州山口陶磁展や第70回光風会などでも数々の賞を受賞されていらっしゃいます。そんな中、陶芸という業界が抱える課題を感じることはありますか?
もちろんあります。これは陶芸に限ったことではないのかもしれませんが、一つは私たちの暮らしのスタイルが変わってきたことです。昔は床の間や玄関などに陶器の花器を置いて、花を生けてお客様をもてなすという習慣がありました。
でも今は、床の間がない住宅が増えていて、花を飾るとか、お茶をゆっくり飲むための場所、料理をするための広いスペースといったものがなくなりつつあります。そうした暮らしの中で、だんだんと焼き物のお皿に料理を盛り付けて楽しむなどの機会が失われつつあると思います。それはとても寂しく、同時に不安と言いますか、今後の課題だと感じています。
これからも、お客様に喜んでいただける作品を
ほかにも陶芸の世界における課題はありますか?
今岳窯では、土や唐津焼に使う釉薬などを、全て自分たちで作っています。そして、丹精込めて作り上げた作品を自分たちの手で売っていく。こういうことをずっとやってきました。
その理由は、焼き物を販売するシステムにあります。通常は窯元があって、その下請けがあります。入札に出せば作品の2割くらいが2級品や3級品となり価格が落ちてしまうんです。さらに、端数の金額もカットされてしまう。実際に入ってくるのは、最初に想定していた額の半分程度になることも珍しくありません。私はそういったシステムに納得できず、実家を出てからは自分で販売する方法を選択してきました。現在は息子がインターネットでホームページを作ったりオンラインで販売したりと、いろいろと工夫してくれています。
先生は日本各地で個展もされていらっしゃいますね。
新型コロナウイルス感染症が流行する前は、北は北海道、南は沖縄まで、いろんな街へ行かせていただきました。今も各地にお客様がいらっしゃいますし、私自身、どこかへ行くたびにその土地の焼き物を見るようにしています。その土地に生えている樹種によって灰が変わり、釉薬の色味も微妙に違ってきます。その違いを知ることが面白いですし、自分の作品に生かすためにも常に勉強だなと思っています。
ご自身にとって、焼き物を作る喜びとは?
やはり皆さんに喜んでいただけることです。私は茶碗をよく作りますので、自分の作品が茶席等で話題になるようなものになればいいなと思いながら焼いています。私にとって作品は我が子であり、自分の分身のようなもの。完成したときの喜びは、およそ他の方にはわからないほど大きなものです。それをお客様に喜んでいただければ、これに勝ることはありません。そんな変わらぬ思いを持ちながら、これからも作品を作り続けていきたいです。