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日本文化の中心となった江戸日本橋
江戸日本橋の歴史は徳川家康の江戸城入城にはじまります。家康が将軍になって以降、街の整備が急速に進められ中期には人口が100万人に達し、当時、世界的な大都市と言われていたパリ、ロンドンをはるかに凌ぐ巨大都市へと発展しました。
また、人とともに日本各地の文化も持ち込まれ、開府から150年経った頃には独自の”江戸文化”も出来上がってきました。錦絵や江戸歌舞伎なども誕生し人々を楽しませています。
その江戸文化の中心を担ったのが日本橋です。五街道の起点であり、情報が集い、物流の拠点として全国からさまざまな物資が集まり、金貨を鋳造する”金座”も置かれ金融の街としても機能するようになりました。
日本橋は、海外の情報を全国に向けて発信する場所でもあり「解体新書」をはじめとする西洋医学の本も出版され、蘭学が確立されています。
江戸後期の経世論家、林子平は著書の中で「江戸日本橋の水は英京ロンドンのテームズ河に通ず」とも書いています。
海外文化を積極的に受け入れてきた日本橋ですが、同時に伝統を守り続ける街でもあります。「日本橋」の橋柱の文字は江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜の筆によるもので、柱には五街道起点の象徴として一里塚の松と榎がデザインされています。
「日本橋Art.jpうつわ-utsuwa-」は江戸と現代を繋ぐこの歴史ある日本橋から普遍的な価値のある1点ものの陶磁器や漆器、ガラスや錫などで作られたうつわ作品、工芸品を国内外に向けて紹介・販売していくと同時に、今後の活躍が期待できる若手のつくりてを発掘し、Web展覧会やコラムといったコンテンツなども発信してまいります。