2024.02.09更新

「尊敬する人が愛用した茶碗でお茶を戴くと、その人の人生の一部を戴いている、そんな気持ちにもなれる」名門窯が守る日本の心

秀吉が持ち帰った大陸の技術と、日本の柔らかな土が出会って生まれた萩の茶碗。江戸時代、茶人達に長く愛され、その美意識を体現した器は、今もなお登り窯が並ぶ小さな谷で営々と形づくられている。 400余年に渡りその火を守り続ける窯元の一つ、田原陶兵衛家。13代目となる現当主が大切にしてきた物作りの心とは何か。そして今、萩焼を襲う過去最大の危機、その先にどんな未来を見据えるのか、お話をうかがった。

使うほどに愛着を増す 器の秘密

13代目となられる田原陶兵衛工房、その歴史を教えてください。

田原陶兵衛さん(以下、田原):萩焼の歴史は、豊臣秀吉の朝鮮出兵に遡ります。秀吉は様々な技術者を日本に連れ帰り、その中に陶工が多かったようです。秀吉と共に朝鮮に渡った毛利輝元が、当時城のあった広島で焼き物を始めました。当家の先祖は広島で、朝鮮の陶工から技術を教わったようです。その後、関ヶ原の戦いで毛利は敗れて萩に移るわけですが、当家も毛利家と共に萩に移って焼き物を造り、ここに萩焼が始まりました。

以来、400年以上に渡って愛され続けてきた訳ですが、その魅力の根源はどこにあるとお考えですか?

田原:九州の多くの窯も同じ時期に始まりますが、どちらかというと産業的な発達をしていきます。製品を作って売り、藩の財政の助けにしたんですね。一方の萩は、殿様の趣味の窯と言う意味合いが強い。つまり茶の湯、お茶の道具をひたすら作ってきました。 その中で大きな意味を持つのが「大道土」です。萩焼の柔らかく優しい色合いや、手触りはこの大道土なしでは考えづらい。この土は、耐火性が強く、1250度ぐらいの高温で焼いてもそれほど焼き締まらないんです。だから軟らかく、手取りが軽く、使っているうちにお茶などが染み込んで変化する。この変化が茶人達に好まれました。 日本人は自然が好きですよね。巨木や苔むした巨岩が有ると、それだけで悠久を感じてすごいと思う。過ぎた時間を大切にするのです。茶碗でも使用を重ねて変化した部分や窯変を「景色」と言います。時と共に移ろいゆく自然を敬い憧れる日本人だからこそ、お茶の世界で萩焼が 長く愛されて来たのだと思います。 だから自分が使って変化してゆく物に愛着を覚えるし、尊敬する人が愛用された茶碗でお茶を戴いた時には、その人の人生の一部を戴いているような、そんな気持ちにもなれるのです。
明治初期まで使われていた萩焼深川古窯跡、東の窯

「継」「創」「伝」の三文字に込めた決意

歴史のある窯を継ぐに当たって、どのような思いを持たれましたか?

田原:襲名する時に、東大寺の管長さんだった方にお願いして「継」・「創」・「伝」の三文字を御揮毫戴きました。繋がってきたものを引継ぐこと、自分の感性で創造すること、次の世代に伝えてゆくこと、という思いを込めました。 ただ、この仕事は、止めたら家の歴史も捨て去ることになるので、やめられない、というプレッシャーは大きかったですね。

先代や先々代から特に教わったことというのはありますか?

田原:あまり特別なことはないですね。人として大切なもの、 思いやりと感謝を忘れるな、信用を大切にしろ、作品は上品でないといけない、等ですかね。 技術に関しては、教わるというより盗むもの、という感じでしたね。

作陶をされる中でどんなことを大切にしてこられましたか?

田原:若い頃、九州の唐津に修行に行きました。それまでの自分は、親父の後を一生懸命追いかけているだけでした。それが、違う先生の下に付いて、勉強して帰ってきた時に、親父の作ってるものと先生が作ってる物のバランスがちょっと違うなってことをハッと感じて。そうか、人が変われば価値観やちょっとした感覚っていうのはもう全部変わる。世の中にはいろんな価値観があるっていうことを実感できた瞬間に、やっと一歩、親父の傘の下から抜け出すことができました。 だから、僕は僕の感覚でこの土に向き合って造る。もちろん人の意見は聞くんですけど、取り入れる取り入れないは自分で決める。最終的には自分の感性を信じて造るということです。
田原陶兵衛さんの作品

原材料が手に入らない 萩焼最大の危機

長い歴史の中で、窯が途絶えるような危機もあったのでしょうか?

田原:やはり大変な危機は、明治維新でした。それまでは藩の庇護の下に、十数軒の焼き物屋が共同窯で焼いていましたが、明治維新以降、体制が変わって自分で売らなければならなくなった。 すると各家のタイミングが合わなくなり、個人で登り窯を持つことになる。そこまでの気持がない家はやめてゆき、 今は五軒になりました。(現在の山口県長門市・深川三ノ瀬の窯元数) そして最大の危機と言えば今です。コロナ禍で、茶会などの需要が激減しました。さらに日本文化全体が衰退しているような時代で、関わる人や興味を持つ人が減り、それに合わせて需要が低迷、さらに原材料が入手困難になりと、課題が山積です。 さらに昨年、萩焼の粘土を供給してる会社が廃業を決められて、萩焼全体で、粘土をどうしようかという切羽詰まった問題もあります。 また、薪の問題もあります。登り窯を焚くには、松の薪が大量に必要なんですが、西日本はマツクイムシで松の木自体が減ってるところに加えて、木こりさんがいなくなってしまった。仕方がないから今、古い家を解体した時に出る天井裏の梁などを頂いてきて、自分で切って割って薪にしないといけないような状態です。新しい松の薪は数年前から入らなくなりました。

やはり、松の薪でないといけないのでしょうか?

田原:松の木は燃え切るのが早いんです。松脂があって火力が強いし、窯に放り込んだらすぐに燃え切るから次から次にどんどんくべられて、1250度まで温度を上げることができる。樫やクヌギなどの雑木はストーブなどに使われますが、ゆっくり燃えるので、真っ赤な熾火が溜まり空気穴を塞いでしまって、かえって温度が上がらないんです。 だから登り窯には松が必要なんですが、このままではこれから一体いつまで焚けるかっていう不安は大きいですね。
松の薪を窯にくべる瞬間

自らの感性を信じ探し続ける その先の未来へ

息子さん(陶芸家:田原崇雄さん)と今後のことを話し合うこともありますか?

田原:押しつけがましくいろいろ言うことは今はあまりないかな。我が家では、親父にしてもその前にしろ、発表してるものに関しては個性があります。だから、作るものに関しては、僕はもう一切口は出さない。彼には彼の世界があるでしょうから。 造る物に関して言えば、責任は個人なんです。彼が作ったものは、彼に全責任があるし、僕が作ったものは僕に責任がある。ただ、窯と名前を次の世代、窯を守ってくれる、そういう人間に渡そうと思ったら、急に全ての行動が重くなります。 信用を得るには時間がかかるけど、無くすのは 一瞬ですから。
田原陶兵衛さん(左)とご子息の田原崇雄さん(右)

萩焼最大の危機の時代。どうやって乗り切っていけるのでしょうか?

田原:土自体も、昔ながらの土は、どんどん減っていくしかないですよね。それがなくなったら、身近にある土、手に入る土で、自己表現をしていく。無くなったからおしまいっていうのではなくて、何か代わるようなものを探しながらやっていくしかないと思います。 萩焼の良しとされる部分は大事にしていかなきゃいけないでしょうが、そこに固執して残すために何かするというよりは、やはり自分の感性によって自分の表現の方法の一つとして萩焼を作ること。自分の感性で許されるものにはどんどん挑戦していかなきゃいけないし、僕も、何か作る時には、前作ったものから何か変化を、というのは常に考えながら仕事をしています。展覧会で、3年前に見てくれたお客さんに「前と同じやね」と言われたら、それはもう最悪です。 ずっと、探し続けるということでしょう。ここで終わりということは恐らくないんです。一個違ったものができれば、その先にはまた違ったものがあるはずですから。結局はもう自分のできることを、自分なりに精一杯やっていくしかないのかな、という風に私は思っています。